浮世絵で見る渋谷・目黒

第2回 目黒 元不二〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:渋谷なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

富士とお伊勢は江戸2大ツアー?

ところで、この絵に描いてある富士塚って、そもそも何のために造られたの?

要は、誰もが富士山に登れるわけではないから、ここを登れば実際の富士山に登ったと同じ御利益があるという考え方だな。富士講では、富士山の山開きの日に富士塚に登って、そこから富士山を拝むという習慣があった。

えっ? 富士講って何?



富士山を信仰する人たちの団体だ。ルーツは、富士宮市にある洞穴ね、これを人穴(ひとあな)というんだけど、戦国時代末期から江戸初期にここで修行した角行(かくぎょう)という行者を開祖とする集団だな。

修行って、洞穴の中で何をするわけ?。


4寸5分角、つまり13.5センチ四方の角材に爪立ちして1000日間の苦行を耐え抜いたというから凄いじゃないか。それで「角行」という名前をもらった。

あはは。爪先立ちを続けてどんな意味があるの? ギネスには載るかもしれないけど、トイレとかどう処理したのよ。

ははは。確かに。でも、そうバカにしちゃいかんよ。角行は最期は人穴で入滅したというからね。そういう経緯から、人穴は富士講の聖地になっていて、たくさんの石碑や塔が奉納されているんだ。現在確認されているのが230基あまり。富士講のメンバーは、こういう記念碑のようなものを奉納するのがステータスだったようだね。

じゃあ、富士講って結構江戸時代にはメジャーだったんだ。


江戸後期には「江戸八百八講、講中八万人」なんて言われたほど、たくさんの富士講と信者がいたらしい。

その人たちの信仰って、どんなことをするの? 毎日富士山を拝むとか?

当たらずとも遠からずだな。富士登山は当然、メーンイベントだけど、日常的には「拝み」だ。教典を読んで、お焚き上げをする。富士塚を造るのも信仰のひとつだ。ただ、この頃の「講」というものを今の宗教団体と同じような感覚でとらえると、ちょっと違う。例えば「お伊勢参り」というのがあるだろ。

伊勢神宮にお詣りすることでしょ。


五街道が整備されると、庶民の旅行も気軽にできるようになってきた。幕府は基本的に領内からの移動には厳しい制限を課していたんだけど、伊勢神宮の参拝には割と寛容だった。だから、当時の伊勢参拝は、純粋な参拝目的よりも、一生に一度の観光旅行的な意味合いが強かったんだ。

そういえば、弥次喜多の『東海道中膝栗毛』もお伊勢参りの話だって、テレビでやってたわ。

ただ、そのためにはかなりの旅費が必要になるから、農村なんかには「お伊勢講」というシステムがあって、みんなでお金を出し合って、貯蓄しながら順々にお伊勢参りに行けるシステムがあった。これが大規模化して、江戸時代に60年周期で3回、数百万人規模での集団参拝という一種の社会現象になったのが「お陰参り」。

要するに、修学旅行とか社員旅行の資金を積み立てるようなものね。

だから、お伊勢講にせよ、富士講にせよ、信仰名目ではあるけど観光旅行のための互助会的な役割があったんじゃないかな。お伊勢参りにも富士参拝にも専門の世話役というかツアーコンダクターがいて、これを御師(おし)という。

ははぁ。江戸時代にもツーリストがあったわけだ。


富士講の場合、最盛期には富士吉田の登山口に百軒近い御師の屋敷があったというからね。加えて富士信仰の対象として浅間(せんげん・あさま)神社というものもあるから、御師の拠点にもなっていたんじゃないかな。

そういえば浅間神社って、全国どこに行ってもあるわよね。


総本山は富士宮市の富士山本宮浅間大社で、全国に1300余りあるんだ。祀られているのは木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)。浅間(あさま)っていうのは火山を表す言葉で、もともとは火の神様、或いは火を鎮める水の神様という意味合いのようだね、

富士山そのものが信仰対象だったり、神様がいたり、いろんなバリエーションがあったのね。

結局、修験道的な富士講と、神道的な浅間信仰が結びついて、富士塚の上には浅間神社を祀るというのが定着したようだ。だから、目黒の富士塚にも頂上には浅間神社があった。
富士塚って、今は全然残っていないの?


いや、都内にもかなり残っているよ。品川富士、成子富士とかね。江古田、豊島長崎、下谷坂本にある富士塚は文化財にも指定されている。富士塚はもともと古墳で土が盛られていた場所を利用したり、富士山の溶岩を積んで造る場合もある。高さはだいたい6mから10mぐらいで、この絵に描かれた目黒の富士塚は12mあった。
高台にあって眺めもいいから、その分名所になったのね。


目黒の富士塚は文化9年(1812)に上目黒の富士講メンバーが造った。当時、ここは目切坂と呼ばれていたんだ。登山道は9つの曲がり角があった。これは本物と同じで1合目から9合目までという意味ね。
今でもあったら目黒の名所になっていたかも。


残念ながら富士塚は、明治になって富士講が廃れたからどんどん取り壊されていったんだ。目黒の場合は、明治11年(1878)から昭和18年(1977)にかけて大橋2丁目の上目黒氷川神社に移転された。今は大橋氷川神社という名前になって、以前の祠も残っているし、再建された目黒富士に登ることもできる。昭和60年頃までは頂上から富士山も見えたそうだ。

でも、浮世絵に描かれたようなのどかな風景はもう無いものねぇ。


かつての、のどかな目黒も都会化しちゃったからねぇ。ところで、目黒の富士塚はひとつだけじゃなかったんだ。だから、ここに描かれた富士は「元不二(富士)」。もうひとつの富士塚については、また次回話すとしよう。

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